こんにちは。れいじです。
中学生くらいの時、僕は自分でなにも調べられない子供でした。
何か分からないことがあったとき、とりあえずは自分で調べようとはするんです。ただ、1つのことを調べ始めると、そこに書かれてある他の言葉がどんどん気になってくる。
それをついつい追いかけていくうちに、まったく違う方向に進んでしまい、いったい自分が何を調べたかったのかわからなくなることが日常茶飯事でした。
だから、自分で悟っていたのです。
「僕は、自分で何かを調べることには向いてない。」
そんなわけで、なにか分からないことがあればすぐ母に「調べて」と頼んでいました。
親の対応は決まって「自分で調べなさい」でした
そんな僕に対して、母がいつも言っていたのは「自分で調べなさい」ということでした。
その時の母の気持ちはこうでしょう。
- すぐ人に頼るのではなく、自分で調べれるようにならないと、将来苦労する
- いつもいつも親を使うばっかりの、自己中な子どもになってほしくない
これはある意味正しい。
親は、「子どもが将来自立できるように、親としてちゃんと教育をする」ことが使命だと思っているから。
でも、「そのくらい自分で調べなさい。」「人を使うばっかりせんとき。」と言われるたびに、僕はすぐに心のシャッターを閉じてしまいました。
そんなことはわかっている。そんなんじゃない。どうして自分は周りができることができないのか。自分はおかしいのか。訳がわからない。。。
そんな気持ちでした。
ADHDの僕に「自分で調べなさい」というのは、目の見えない子どもに「ちゃんと見なさい」と言うのと同じ
このとき、僕の母は、僕がADHDだということには全く気が付いていません。もちろん僕自身も。
こわいのは、この「気がつかない、知らない」ということなんです。
集中して調べることができないというのは、ADHDの代表的な症状です。だから人に調べてもらおうとする。
ただこれは一歩間違えると、ただのわがままな性格にしか見えません。まさに紙一重なんです。
ADHDという言葉すら知らない人は、わがままな僕を常にさとし、教育しようとし、時に叱る。
でもそれって、目が見えない子供に「ちゃんと見る努力をして見えるようにならないとダメよ」と言っているのと同じなんです。
もちろん僕の親は、目の見えない子供にそんなことは絶対に言わない。
でも、僕には「自分で調べないとダメ」とずっと言い続けてきたのです。
僕がどれだけ苦しかったか想像できるでしょうか。
あなたのお子さんが、もし生まれつき目が見えない障がいを背負っていたとしたらどうしますか?
もしかしたら、目が見えるようにといろいろな努力をするかもしれません。
ただ、たとえ目が見えなくても、子供が少しでも幸せになれる方法を見つけようとしないでしょうか。
ADHDの子どもにも同じことが言えます。集中できない、調べものができない、人の話が聞けない。それを嘆くよりも、他に幸せな気持ちになれる何かを見つけてほしいのです。
ADHDの僕が、親に一番してほしかった対応とは
ここで考えてみてください。中学生だった僕が、この時親に一番してほしかったのは何だったのでしょうか。
もし、僕の親が僕のわがままじみた行動を受け入れ、「わかった。あなたはそういう性分なんだから、じゃあ代わりに調べてあげる」と、なんでもかんでも言うことを聞いてくれたらよかったのでしょうか。
それは僕にもわかりません。
もちろん、そうしてくれたらどれだけ楽だったでしょう。
ただそうなると、母がいないと困るという、単なる甘えん坊になってしまったかもしれません。
本当に大切なのは、その時、一緒になって問題解決に取り組んでくれることではないでしょうか。
調べ方のコツや、便利なツールやサービスなど、「困った時にこうやって調べればいい」という事を教えてあげる。
それを知るだけでも、少し楽になれます。
親が「自分の困難に一緒に向き合ってくれる」。これこそが、僕が求めていたものでしょうし、ADHDの子どもにとって、何より心が救われることだと思います。
ただ、僕の場合は、誰にも解ってもらえない苦しい時期があったから、同じ苦しみを持つ子供を理解してあげられます。結果、前を向いていられるのかもしれません。実際に今僕は、この仕事を天職だと思い、自分と同じような子どもや親を一人でも多く救ってあげたいとがんばっているわけですから。
親が子どもを理解し、受け入れるのは無理
ここでまた極端な話をします。
僕は、親がADHDのような発達障がいを持つ子どもを理解し、しっかりと受け止めるのは難しいと思っています。
いや、ほぼ不可能です。
それは誰よりも愛情があるから。
(ネグレクトを除きます)
頭では分かっていても、自分の子どもにはこうなってほしいと、わずかでも希望を捨てないのが親です。捨てられないのが親なのです。
だから、ついつい余計なことを言ってしまう。反抗されると、思ってもいなかった言葉が出てしまう。
それはあたりまえのことです。
これは日本だから起こることかもしれません。国の文化や哲学によっては、親のあり方に大きな違いがあることが紹介されています。
だから、僕たちのような支援をする機関やスタッフが必要で、僕たちがお子さんの特性を誰よりも理解し、認めてあげないといけないのです。
僕は今それをASIS(アズイズ)でしようとしています。
僕は、この仕事をするようになり、自分自身がADHDだということにようやく気付くことができました。それはとても大きかった。
「自分ができなかったのは、当たり前のごく自然なことだったんだ。」
それが分かった時に、どれだけ救われたか。
重かったなまりのようなものがすーっとなくなっていくのを感じました。
それでも、それを親に理解してもらい、スムーズなコミュニケーションが取れるようになるまでに、また相当な時間を費やしました。
僕の親は、僕がADHDだということを認めたくなかったわけではありません。ただ、分かったつもりでも、すぐにはちゃんとした対応が取れなかったのです。そしてそれが理由で、また摩擦が起きる。
お互いにしんどい時間が積み重なっていきます。
もし、もっと早い中学生くらいの時期に僕がADHDだと分かっていたら、これまで親としょっちゅう言い争ってきた、そんなつらい時間が少なくてすんだかもしれません。
母も同じことを言っています。
今、放課後等デイサービスに発達障害のお子さんを預けている親ごさんは、すでに自分のお子さんが発達障害だということを知っています。
上にも書いたように、一番の悲劇は「気付かない・知らないこと」です。でもそこはクリアしている。
これは、僕に言わせればとても幸せなことです。
でも、まだあなたのお子さんは、自分が集中できなかったり、すぐにキレたり、人の話を聞けずに怒られることに対して、悩んだりイライラしているかもしれません。
まずは、お子さんにちゃんと障がいの特性を教えてあげてください。そして理解してあげてください。
「あたりまえなんだよ。大丈夫だよ。」
それが子どもが親に望む対応なのではないでしょうか。